2019年09月05日

こんなに長い幸福の不在

きっともうすぐに、たのしいたのしいしあわせが
やってくるにちがいない。
だってこんなにも長い幸福の不在。
【以下、略。】

銀色夏生「こんなに長い幸福の不在」角川文庫より引用。


ハイティーンの頃、友人が読んでいたものに影響されて
何冊か読んだ作家さんです。

他に、「これもすべて同じ1日」
「君のそばで会おう」などなど。
タイトルで射止められてしまいます。

タイトルのほかには、写真と、写真に添えられた言葉で
構成されたものが珍しいな、と、当時の私は思ったのです。
表題の、「こんなに長い・・・」は、イラストでしたが。

内容については、よく覚えていないのですが、
当時の私には新鮮だった、
感性や言葉選び、物事の切り取り方など、
影響を受けているんだろうな、と思います。

銀色夏生 公式ホームページ

なんとなく、これを読んでいた頃を思い出してしまったのです。


posted by おユキさん at 17:00| 考える葦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月14日

カウンセラーのジレンマ


他人を変えてやろうとか、
他人に感謝されたいとか、
そういう願望を抱えている人間が
心理カウンセラーをするべきではない。

と、良心あるカウンセラーは思い、
そうあるべきと自分を戒めつつ過ごしていると思う。

けれど、
多くのクライエント候補者は、
カウンセラーに自分を変えて欲しいと願い、
感謝したいような、素晴らしく大きなギフトを
くれるカウンセラーに会いたい、
そう思っているようだ。

難しいなぁ。

posted by おユキさん at 21:45| 考える葦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月30日

さよなら平成。で、令和には、何と?

「平成さよならセール」というチラシを見て、
はて、では令和さんには何と声を掛けるんだろう?
と。

してみると、”さよなら”は時間に関係なく使えるのだな、
と、改めて感心。

では迎える時?には何と言う。

「おはよう令和」「こんにちは令和」「こんばんわ令和」

うーん・・・。

そういえば、私も元号が変わる機会に、
何かクーポン的なものを作ろうかと考えたのだっけ。
「welcome 令和」?ようこそ、というのもどうなのか。
結局、決まらなくて企画倒れしました。

明日になれば、色んなプロの方が考えた、
令和への挨拶がわかりますね。

そういえば、新元号が発表された時に知ったのですが、
「令和」さんという名前の方が、案外たくさんいることに驚きました。
「のりかず」さん、「よしかず」さん、などと読むそうです。

ラベル:令和 挨拶
posted by おユキさん at 21:26| 考える葦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月29日

自由とは、耐えるもの。?

ここ数日で、「自由に耐える」という趣旨の文章を、何度か目にしました。
これまで、あまり見なかった論調だったので、時代が変わったように感じました。

私自身は、かなり若い頃から、自由とは辛いもの、大変なもの、困難が待っているもの、
と思っていたので、ちょっと嬉しく感じました。
ただし、私が最初に自由について考えたのは、まだ10代でしたので、
若さ特有の、入り組んだ面倒くさい考えでした。

さて、今もこれまでも、自由という言葉から連想されたのは、
「開放される」「好きなようにできる」など、”自分の立場”から見た、
都合の良いものばかりだったように思います。

そして、人が「自由になりたい」と願う時、
大抵は窮屈な状態にいるのではないでしょうか。

窮屈も、度を越えれば、生きることから開放されたい、という願いになり、
それはすでに窮屈の範囲を超えていると思うのですが、
大抵の窮屈には、安全、安心、守られる立場でいられる、
という特典がついています。

自由になる、自由である、ということを自分のものにするためには、
安全も安心も、自分で調達し、維持していくことが課せられます。
様々なことを選び続ける、選ばないことを決める、エネルギーが要ります。
まさに、耐える、だと思います。

だから、今のまま我慢しろ、と言いたいのではありません。

今の私たちには、選ぶ自由が増えました。
それを、多くの人が望んだからです。

選ばない自由もあります。

大人になると、自由でいることも、窮屈であることも、
選んで勝ち取ることが必要になりました。

この、たかが「選択の自由」を与えられただけで、
これまでより多くの人が、生きることに躓いてしまうようになった、
と思える現状は、どうしたものでしょうか。

「自由」と「身勝手」を混同している人を散見するのは、
まだまだ価値観の過渡期にあるからなのでしょうか。

posted by おユキさん at 09:00| 考える葦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月06日

それは”平等であるべき”なのかしら

こういう問題は、立場上、あまり大きな声で言うべきでないような気もしますが、
ちょうど、パターナリズムについて考えていたところだったので、
書いてしまおう、と、半ば衝動的に書きなぐってしまいます。

先日、舞鶴市市長が、土俵上で倒れた際に、
女性看護師が土俵に上がって救護活動を行った。
この時、「女性は土俵から降りてください」というアナウンスが流れて
救護活動を中断させられたことについて、大変な騒ぎになっている。

後日のニュースで、この女性は、女性が土俵に上がってはいけないもの、
ということを知っていて、運営側の男性に「上がって良いですか」と
許可を得て、活動に当たったということもわかった。
しかも、この女性は倒れた市長の関係者。

なんだか泣けてくる。
私の、この「泣けてくる」というのは、男女の問題ではなく、
許可が必要だということを知っているから許可を得てしていることに対して、
外部から咎められたり、許可をした張本人から、後になって責任を押し付けられたり
した経験からのことである。

このまま思いつくまま書いて行くと、どんどん脱線していきそうなので、
話を土俵の上に戻す。

宝塚市長(女性)が、挨拶は男性同様、平等に、土俵の上でしたい、
という申し入れを、協会に断られた事実がある、という話も入ってきた。

このふたつの出来事が、何かを煽りたいかのように、連続して報じられていた。
私は、まったく性質の違うことだと思う。

大昔から、伝統として「女人禁制」を守ってきた場所へ、
不要不急の用件で入ろうというのは、相撲と言う世界を低くみているように感じる。
何でも平等なら良い、というものではないんじゃないか。
知っているなら、遠慮するのが常識をわきまえた態度ではないかと思う。

相撲の土俵だけではなく、舞台や道場など、鍛錬した人間、
鍛錬しようとする人間が、足を踏み入れる場所にも、同じことが言えるのだと思う。

だからこそ、「どうぞ」と促された時、光栄に思うのだし、
一般公開などの希少な機会に体験できると、くすぐったいような、
非現実の不思議が感じられるのだと思う。
「憧れ」という気持ちも、この延長線上にあるもののように思う。

もしかしたら、過去にも書いたかもしれないが、
男女平等ということには、ちょっと首を傾げたくなることが多い。
もちろん、大きく頷いて「賛成」と叫びたい事柄も、中にはある。

「私があなたの大事な場所に入れないのは差別だけど、
あなたが私の大事な場所に入るのは不法侵入です。」

なんとなく、こういう図式が目立つように感じるこの頃。

あ。パターナリズム(父権的温情主義)には、また機会があれば。
これもけっこう迷惑な話です。

長々と書いてしまった。
長い割には不足したところのある文章を、
読んでくださって、ありがとうございました。

posted by おユキさん at 14:52| 考える葦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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