こういう問題は、立場上、あまり大きな声で言うべきでないような気もしますが、
ちょうど、パターナリズムについて考えていたところだったので、
書いてしまおう、と、半ば衝動的に書きなぐってしまいます。
先日、舞鶴市市長が、土俵上で倒れた際に、
女性看護師が土俵に上がって救護活動を行った。
この時、「女性は土俵から降りてください」というアナウンスが流れて
救護活動を中断させられたことについて、大変な騒ぎになっている。
後日のニュースで、この女性は、女性が土俵に上がってはいけないもの、
ということを知っていて、運営側の男性に「上がって良いですか」と
許可を得て、活動に当たったということもわかった。
しかも、この女性は倒れた市長の関係者。
なんだか泣けてくる。
私の、この「泣けてくる」というのは、男女の問題ではなく、
許可が必要だということを知っているから許可を得てしていることに対して、
外部から咎められたり、許可をした張本人から、後になって責任を押し付けられたり
した経験からのことである。
このまま思いつくまま書いて行くと、どんどん脱線していきそうなので、
話を土俵の上に戻す。
宝塚市長(女性)が、挨拶は男性同様、平等に、土俵の上でしたい、
という申し入れを、協会に断られた事実がある、という話も入ってきた。
このふたつの出来事が、何かを煽りたいかのように、連続して報じられていた。
私は、まったく性質の違うことだと思う。
大昔から、伝統として「女人禁制」を守ってきた場所へ、
不要不急の用件で入ろうというのは、相撲と言う世界を低くみているように感じる。
何でも平等なら良い、というものではないんじゃないか。
知っているなら、遠慮するのが常識をわきまえた態度ではないかと思う。
相撲の土俵だけではなく、舞台や道場など、鍛錬した人間、
鍛錬しようとする人間が、足を踏み入れる場所にも、同じことが言えるのだと思う。
だからこそ、「どうぞ」と促された時、光栄に思うのだし、
一般公開などの希少な機会に体験できると、くすぐったいような、
非現実の不思議が感じられるのだと思う。
「憧れ」という気持ちも、この延長線上にあるもののように思う。
もしかしたら、過去にも書いたかもしれないが、
男女平等ということには、ちょっと首を傾げたくなることが多い。
もちろん、大きく頷いて「賛成」と叫びたい事柄も、中にはある。
「私があなたの大事な場所に入れないのは差別だけど、
あなたが私の大事な場所に入るのは不法侵入です。」
なんとなく、こういう図式が目立つように感じるこの頃。
あ。パターナリズム(父権的温情主義)には、また機会があれば。
これもけっこう迷惑な話です。
長々と書いてしまった。
長い割には不足したところのある文章を、
読んでくださって、ありがとうございました。
posted by おユキさん at 14:52|
考える葦
|

|